メロウボックス
08:00
安倍の家は、朝っぱらからやけに静かだった。
休日なのだが、吉昌と露樹は昨日から旅行へ、晴明は表の仕事関連で呼び出され、それに六合も付いて行った。青龍はまだ仕事中。昌浩は、昨日の仕事の疲れが残っているのだろう、くーかーと寝こけているはずである。今日は彰子との約束があると言っていたから、そろそろ起こしてやるべきだろう。他の神将たちは、用がない限り、ここ、台所にはやって来ない。おそらく各々好き勝手に時間を潰しているはずだ。
だから休日の朝なら必ず誰かはいるはずの台所で、やることもなく暇を持て余していた紅蓮はひとり、ブラックコーヒーをすすりながらぼんやりと雑誌を繰っていた。なんとなく買ってみたバイク誌だ。部品の並ぶページは面白くないが、様々な機体の写真はなかなか興味を引いた。実際に転がしているから、こういうのを見るのも割と楽しい。
ふと、足音が聞こえた。次いでドアの開く音。
「勾?」
「なんだ、ここにいたのか」
「何か用か?」
尋ねながら、勾陣用のマグカップを用意しようとして、「あぁ、いらない。すぐに済む用だ」と断られた。――から、紅蓮はそっと身構えた。
紅蓮にカレンダーの感覚は薄いが、それでも今日が何の日なのかは分かっている。スーパーに買い物に行くたびに、入口付近の目立つ場所でチョコレートセールをやっているから、否が応でも意識せざるを得ない、と言った方が正しいかもしれない。そしてもっと正しく言えば、ここ数年色々仕掛けられっぱなしな感があるから、警戒せざるを得ない、と言うべきだ。――いや違う、別にバレンタインには何も仕掛けられてはいない(きっかけを作るのは勾陣でも、結果的には紅蓮がひとり踊っているようなかたちだ)、はずなのだが、彼の印象から言うと、もうバレンタインデーは勾陣に警戒すべき日、とイコールだった。
紅蓮の様子に目ざとく気付いた勾陣は、呆れ顔で、「何を警戒している」と、同じように呆れた声音で言った。紅蓮の返答は簡潔だ。「お前が言うか」
「何を人聞きの悪い。……もう気付いているのか、つまらないな」
聞こえてきた後半の独り言に紅蓮は噛みついた。
「その台詞が出てくる時点で何か仕掛ける気満々だよな、お前」
「うん、まぁ、言ってしまえばそうなるな。朝なら油断していると踏んでいたんだが」
しれっとそんなことを言ってくるのがまた可愛くない。年がら年中、隙あらば紅蓮で遊ぼうとする彼女のことだから、この程度簡単に予測できた返答であったと言えば言えるのだけれど。
残念だ、と彼女は肩をすくめた。
「最初から警戒されていたのなら仕方ないな。不意を突くのが面白いのに、注意されていたら面白くも何ともない。ほら。やる」
「うぉっ!?」
ぽい、と本当に無造作に放り投げられたものを慌ててキャッチする。シンプルで、どこかクラシックな印象を受ける、鈍いゴールドのラッピングに同色のリボン。ありがとうと礼を言ったのはほぼ反射と無意識であり、それに勾陣が満足したらしい気配がした。
「……勾。くれるにしても、もっとこう……雰囲気とか、言葉とか」
「我が儘だな。そんなもの望める身分か」
「おい待て、物凄く酷くないかそれ! 俺はそのレベルか!?」
暴言にもほどがある。
「不満か?」
「お前……っ!」
傲岸不遜な俺様もしくは女王様。あるいは、身勝手でふてぶてしい黒猫。今の勾陣を一言で表すなら、こうだ。そして開き直りでもなく、あくまでも自然体でここまでの態度を貫かれるともう怒りすら湧いてこない。まさかそこまで見越してじゃあるまいなこいつ。軽く睨むが、勾陣はどこ吹く風だ。ただ、別段特に何も悪くは思っていない様子で、悪かったよ、と軽い調子で一言。しかしこれは暴言に言葉をなくした紅蓮に呆れての慈悲である可能性が非常に高い。
「欲しかったのか? 雰囲気や、言葉」
からかい交じりの笑声に、やや憮然と応える。
「必要最低限くらいは」
女々しいと言われようが、無造作に放り投げられた側としてはそれくらい望んでもばちは当たらなかったと思う。いやけれど、もう望む方が間違っているのか? ――いやいやいや。そんなわけはない、はず。
無限に深い思考の海へ沈みかけていた紅蓮は、実に面白そうな勾陣の声で引き上げられた。
「こんなだから面白いんだといい加減学習すればいいものを」
「……どういう意味だ、おい」
「そのままの意味さ。私としてはこのままのお前の方が好きだがな?」
一瞬で硬直した身体は、続いた言葉であっという間に解れた。
「面白くて」
「…………そんなことだろうと思った」
片頬をひきつらせる。ああそうだ、分かっているとも。この女に期待することが間違っているものがたくさんあることくらい、とうの昔から身をもって色々と理解しているとも。そもそもバレンタインのチョコレート自体が『期待することが間違っているもの』のひとつではないか。貰えているだけ幸せだ。だからそこで満足しておくべきだったのだ。そうだ俺が悪かった、俺が間違っていた。どうせこれを買い求めたときも、いっさい迷ったりせずなんとなく目に付いたものを、「喜んでくれるかな」ではなく「面白い反応をしてくれるかな」と期待しながら頼んだに違いない。ありありと目に浮かぶ。
軽くやさぐれながら、手に持っているチョコレートの箱を観察してみる。リボンに付いているタグには、ブランドには明るくない紅蓮でも聞いたことがあるチョコレート・ブランドの名前が書かれていて、彼は少し、目を見開いた。間違いなく高級品である。自惚れていられる分かりやすい要素を見つけて、緩みかけた頬を、彼は意識して引き締め、不機嫌を取り繕おうとした。けれど、心情を誤魔化すことは彼の苦手とするところであり、感情が強ければ強いほどその難度は増していて、仮面を張り付けることは、どうやら完全に出来てはいないようだった。勾陣の笑う気配で紅蓮はそれを知ったが、悔しかったから敢えて無視をした。くるり、と箱をひっくり返してみて、しまった中身が反転する、と慌てかけて、そこに何かが引っ掛けられていることに気がついた。リボンの結び目がある面の真後ろの面、おそらく端をテープか何かで固定されているのだろうそれは名紙より一回りほど小さなサイズのカードだ。Happy St.Valentine's Day、とプリントアウトされている。
「あぁそうだ、騰蛇」
「ん?」
呼ばれて、顔を上げる。
何故か秘めやかな印象を受ける微笑をたたえた勾陣が、ふと軽く首を傾げてみせた。悪戯好きの子どもめいて、どきりとするほど艶やかな表情に、彼の全意識は勾陣へ向いた。
「ちょっと、欲しいものがあってね」
「…ちゃっかりしてやがる」
この場でお返しの指定とは本当に可愛くない。思わず口が悪くなった。
「何が欲しいんだ」
お返しはするつもりであるし、ならば欲しいものをあげたい。自分から言ってくるから可愛くなかっただけで、紅蓮にとってありがたいお願いであった。これで今年は悩まずに済む。
その場で言えばいいものを、勾陣がこちらへ向かって来た。何をするつもりだ、と身構えて――無駄に終わった。躊躇いなく、ぴとりと密着されて、腕を首に回され、爪先立ちになった彼女の口が耳元に寄る。一瞬、頭の中が真っ白になった。軽く前かがみになったのは、いつ頃からか彼女のために身に付けた無意識だ。
「……ん」
耳たぶに、息が、かかる。緊張で体が動かせない。たちの悪い魔法のようだった。ともすれば呼吸すらも怪しくなる、錯覚。心臓が体内でひどくうるさい。もうこのまま、冷たいフローリングの上で、ぱちんと弾けてしまいそうだ。
全神経を聴覚に集中させる。それがいけなかったのかもしれない。
口を開いた彼女は、物憂げで熱っぽい囁き声でたった一言、
――ペアリング。
「……え?」
予想外で、あまりの単語に、完全に白く溶けた脳髄は、その一言を合図にあらゆる感覚の受容を不可能にしてしまったようで、しばらく耳の中から指先まで彼女の声が響いていた。はっと気付くと既に勾陣は紅蓮から離れていて、呆けた表情の紅蓮を、からかうように、同時に念押しするように見つめていて、その表情が、どうしようもない色香と子どもっぽい愛らしさを備えていて、だから紅蓮の思考能力は余計に不能化した。い、ま――今、この女は、何を言った。
くすり、と息を零して、世間話を終えたとでも言いたげに、彼女は軽やかに踵を返した。
「楽しみに待っているよ。叶えてくれるんだろう?」
涼やかな声を残して彼女は台所を後にする。いつものパターンだ、と思うだけの思考能力すらまだ回復していない。
必死に息を吐き出して、今更目元に熱が集まる。脳だけでなく、心臓以外のすべての部位が機能停止していたのかもしれない。そして心臓だけが死にそうなほどに働いていた。
な――んだ、今のは何だ。全力でのからかいか。ならば嫌に真剣味を帯びていたあの声は何だったんだ。あの熱は何だったんだ。いや、取り敢えず、落ちつけ俺。いや無理だ。落ちつくなんて――いきなりあんな台詞言われて落ちつき払っていられる男がもしこの世にいるんなら誰か目の前に連れて来てくれ。神と崇めてもいい。待てその神は自分だ。あれじゃあ俺はこれでも落ちついているのか――違う違う。
テーブルの上に置きっぱなしだった飲みかけのコーヒーを思い切り仰ぐ。熱いものが喉を滑り落ちて、それで幾分か自分が戻って来た。それでもまだ混乱しているらしい。目が回ったように足元がふらふらする。
「…あの女………!」
悪態でもつかないとやっていられない。
落ちつけ落ちつけ落ちつけ。何かの呪文のように繰り返し呟きながら、せめて意味のない文字で頭をいっぱいにしてやろうと、意味不明な思いつきにより、先ほど見つけたメッセージ・カードを箱から引っぺがして、Happy St.Valentine's Day、の三単語を凝視する。しばらくして、自分が間抜けなことをやっていると自覚できるくらいには頭が冷えた。どれだけの爆弾を投げつけられたのか。
深呼吸して、なんとなく、カードを裏返してみた。
「ん?」
何か書かれてある。活字ではなく手書きのボールペン字で、こちらも英語三単語。読むとはなしに、目で追って、そして彼はまた、固まった。その短文が、ごちゃごちゃと体内で跳ね、血流に乗って心に巡る。ただし今度は回復も早かった。と言うよりは、驚愕よりもしてやられた感の方が大きかったからかもしれない。あるいはひとつめの衝撃が大きすぎた。もしかしたらかたちにされたことが珍しいだけで、ある意味では当然の欲求であると気づけているからか。
ここまでてのひらの上だと、悔しさを通り越して覚えるものは屈辱感だ。転がされ続けてたまるか。せめてどちらかの真意くらい問い質してやる。あの涼やかな目元をほの赤く染めてやらなければ気がすまない。もしこれが――ひとつめにせよ、ふたつめにせよ――悪戯目的だったとしたら、タチが悪すぎる。両方だったら、極悪だ。けれど、もし、両方ともが真実だったら。……理性総動員は、まず間違いない。
「――……勾っ!!」
届いているとも思わずに、何かを発散するように呼んで、大股で彼女の自室へ向かう。もちろん手にはチョコレートの箱とメッセージ・カードを持って行くことも忘れない。
カードの裏には、彼女の筆跡で、こう書かれていた。
――Keep loving me.
11:00
ゆるゆると吹く風がそこまで冷たくないことに、ラッキーだったと、自然、待ち合わせ場所へ向かう彰子の足は軽かった。普段なら、どうして休日に限ってあったかいのだろうと口を尖らせるところだが、今日に限っては別である。どんなに楽しみな予定が入っていても、痛いほどに寒い日は、そちらに気が散ってしまう。かと言って、季節を確かめてしまうほど暑いわけでもない。典型的な『暖かく過ごしやすい冬の日』――絶好のデート日和である。
映画に行こうと約束を取り付けたのは二週間ほど前のことだ。理由はシンプルかつ明快。今日がバレンタインデーだから。
これもラッキーな話である。バレンタインデーが平日であるときは、取り敢えず友人から冷やかされからかわれ面白がられつつ背を押され、別学年の階へ行くときに妙な緊張感を味わい、昌浩を呼ぶときでさえも彼のクラスメートが彼をからかっているのを見てまた緊張し、と色々疲れるものがある。昌浩は割と朝のSHR開始ギリギリに登校しているらしいので朝早く渡すことも出来ず、放課後は放課後で比古や章子がいたりすることが多いためチャンスを見計らうのが難しい。
チャンスを見計らうのはもしかしたら休日の方が難しいのかもしれないが、ちょうどいい流れとか、一回や二回くらい、あるだろう。たぶん。あんまり気負いすぎるとかえって駄目なのだ、とは天一からのアドバイスだったっけ。取り敢えず服装も、変に気構えず、ワンピースにブーツとシンプルにまとめてみた。
待ち合わせ場所は、普段通学にも使う駅前の大きな時計のあたり。昌浩は割と時間にかっちりしているからそんなに遅れることはないが、腕時計を確認してみると待ち合わせの時間までまだ十五分くらいはあったので、昌浩がその場所にいることに気付いたときは驚いた。
昌浩が頭上で手を振る。小走りで駆け寄った。
「ごめんなさい! 待たせた?」
謝りながら、ロングTシャツにジャケット、デニム生地のジーンズに履きなれた風のスニーカー、と一般的な男子中学生の私服に合わせられているマフラーが、いつかクリスマスに自分があげたものであることを確認して、頑張って仕上げてプレゼントしたものがちゃんと彼のファッションの一部として機能していることに嬉しくなった。
「いやこれは早すぎた俺が悪いから大丈夫!」
訳の分からないフォローだ。首を傾げた彰子に、昌浩は「えぇと」と苦笑した。
「ついうっかり、待ち合わせ時間間違えててさー。十時半だと思ってて」
「……間違えようがないと思う…」
本来の待ち合わせ時刻は十一時。この三十分のズレが一体どこから出てきたのか、彰子には謎だ。
控えめながらも的確な突っ込みに、昌浩はあははと笑うばかりだ。
「でも、逆に遅く間違えてて、彰子を待たせちゃうよりはずっとよかったから」
言い訳の代わりにそんな台詞を言えてしまうのはずるい。
どう返していいか分からなかったから、彰子は話を、今昌浩が右手に持っているものにスライドさせた。
「それ、何?」
「え?」昌浩が右手を胸辺りまで持ち上げる。「これ?」
「うん」
ラベルに描かれているイラストは、彰子の知識には存在しないものだった。
「平たく言えば、チョコレートの炭酸」
「…………チョコ?」
イラストから想像は出来ていたが、味が、というか、それを組み合わせてしまう製作元の発想が想像できずに、鸚鵡返しするだけになった。さらに昌浩が「うん、チョコ」と頷く。彼の言うように、ラベルには『CHOCOLATE』の文字。
「結構ホントにチョコだよ?」
「……本当?」
「ほんとほんと」
どうしても胡散臭さが拭いきれないのは、たぶん、チョコレートと炭酸が相容れないもののように思えて仕方がないからだ。それと、中の液体がほぼ透明に近いから。ちょっと借りて原材料名のところを見てみても、いくつかの品目名の最後にカフェインと書いてあるだけで、あとはなんちゃら酸がいくつか。ぶどうを使っていないぶどうジュースとかがさして珍しくもないことを知っているけれど、何となく気持ち悪い。いや、気持ち悪いと言うよりか、納得いかない。
目の前に幽霊が出て来ても叫びはしないだろう彰子が、むぅ、とチョコレート入り炭酸飲料を不審げに軽く睨んでいるのが面白かったのかもしれない、昌浩は、「何なら飲んでみる?」と笑いながら言ってきた。
「いいの?」
「うん。ほら、百聞は一見に如かず? どうぞ」
「じゃあ、いただきます」
「はい」
興味半分、慄き半分で飲んだ。
まず、炭酸特有の、舌全面に泡の弾けるぴりぴりとした感覚。そんなに甘くない。というか、辛みの少ない普通の炭酸水かな、と、ちょっと肩すかしを食らった気分になって飲みこんで、――飲みこんだら、チョコレートの味がした。
「あ、本当にチョコの味がする」
「だろ?」
本物のチョコレートと言うよりは、チョコレート味の飴とかと同じ味だけれど。思っていたよりしっかりとチョコレートだ。
「わぁ…え? 凄い!」
思わずはしゃぎながらペットボトルを返す。
本当にね、とそのまま一口飲んだ昌浩が同意した。
「普通に美味しいんだよね。珍しいよねー新発売みたいでさ」
「バレンタインの時期に合わせたんじゃない?」
「え?」
「え?」
昌浩が何を疑問に思ったのか分からない彰子は、首を傾げて昌浩が口を開くのを待つしかない。どうしたんだろう、急に。変なことを言っただろうか。別に当然の発想だ。バレンタインだからそれに関連してチョコレート関係のお菓子やジュースが増えるのは普通に想像できることなのに――と、もしかして。
ふと思いいたって、まさかとも思いながら、それをそのままぶつけてみた。
「…昌浩、今日が何日か、分かる?」
「今日? 当たり前だろ、二月じゅう……十四日!?」
「あ」
やっぱり。
本当に今更気付いたらしい昌浩は驚いたように瞬きを繰り返している。え、えー、と自分が信じられないと言った様子だ。彰子の方も信じられない。自分たちの年齢だったら、女子も男子もそれなりに盛り上がるイベントのはずなのに。
「い、いやいや! 一昨日までは覚えてたんだよ、たぶん! 昨日ちょっとした仕事入って、それで頭いっぱいで、今日になったらなったで彰子との約束で頭いっぱいで!」
頭いっぱいだったのはいいが、その約束を取り付けた理由にどうして思い至らないのか。と言うか、カレンダーを見なかったのだろうか、彼は。
慌てふためく昌浩を見るのは面白いし、可愛いなぁと思うが、その一方で、自分だけが気にして緊張していたのだと分かって、彼を責めるような心が生じる。だってせっかく頑張ったのに。誰の助けも借りずに一人で作って。いつものことだから、少しくらい期待してくれてるかなぁとか、考えながら作っていたのに。
「じゃあ」
だから、ついつい意地悪なことを言ってしまいたくなったのは、彰子が責められるべきではないだろう。
「昌浩は、私のチョコレート、いらなかった?」
「え? ――ええぇぇぇえぇえっ!?」
先程の比ではなく慌てふためき始めた昌浩に、仕掛けた彰子が慄いた。
「そんなことないっ! ごめん、気に障ったなら謝る、ほんとごめん! と言うか、いらないわけ、ないだろ!?」
どこか鬼気迫る、けれど果てしなく情けない昌浩の様子が可笑しくて、たまらず笑い転げそうになった。抑えて抑えて、けれど顔が笑み崩れるのだけはどうしようもなかった。何でこんなに簡単に、ほんの僅かながらにもささくれだった心を落ち着かせてくれるのだろう、昌浩は。陰陽師だから、無意識に言霊でも扱っているのだろうか。それとも。
「ううん、私もごめんなさい。冗談。それに、昌浩のために作ったのに、自分で食べるとか、悲しすぎるじゃない」
昌浩があからさまにほっとして、なんだかこっちの心臓のあたりがほわほわした。
鞄の中を探る。あるだろうと思っていたチャンスがこんなに早く巡って来るとは思わなかった、とぼんやり考えていたが、指先に箱が触れた瞬間、それは見る間に霧散した。代わりに全身を満たす、緊張。それから期待。――喜んでくれて、ありがとうと言ってくれるだろうという、甘い予感。
毎年のことなのに、相変わらず――いや、ある意味ではだからこそ、ここ数年ずっと自分を悩ませ続けた心臓の音は、相変わらず彼女の中でうるさくて、それを努めて無視して意識の隅に追いやりながら、昌浩にばれないように深呼吸、可愛く可愛く、と自分に言い聞かせて笑い、「はい」とそれを手渡した。パステルオレンジの薄紙にギンガムチェックのラッピングを施したそれは、中身もラッピングも込めた思いも、取り敢えずと量産して適当な数に分けて簡単に個包装しただけの友チョコとは段違いだ。渡す本人に言うことはないけれど。
どこかぎくしゃくとした手つきでそれを受け取った昌浩は、魅入られたようにまじまじとそれを観察し、ほうと息を吐いてから、彰子に満面の笑みを向けた。
「ありがとう。…めちゃくちゃ、嬉しい」
噛みしめるような、言葉。――反則だ。
顔に熱が集まりそうになった。慌てて、うん、と頷き、出来るだけ自然を装って視線をはずす。手の中の箱をまじまじと見ていた昌浩は、しばらくその仕草を続けてから、いそいそとバッグの中にしまい込んだ。
「あ、これは…その」誤解を恐れる弁明の声。「一番、美味しく食べれそうなときに食べたいんだ。今、これ飲んでたし、何か舌が麻痺してそうで嫌でさ……や、気のせいかもしれないけど」
要領を得ない昌浩のしどろもどろな言い訳に、別段気を悪くしていたわけでもなかったので、彰子は一度構わないの意味で首を振ってから、腕時計を見た。――十一時。
「昌浩、約束してた時間になったし、早く行きましょう? 電車、出ちゃうわよ」
「あ、ほんとだ。じゃ、行こっか」
歩きだしたのはほぼ同時だった。
待ち合わせの時間は、映画開始時刻にかなり余裕をもって合わせてある。急ぐ必要はない。
「そう言えばさ、今日、確かうちに斎が来てるはずなんだ」
「斎ちゃんが?」
「うん、なんか、益荒と阿曇にあげたいんだって。それで、天一とかにヘルプ求めに来るみたい」
それは去年までの自分だったな、と考えた。男性陣にも頼んで、昌浩を安倍家から連れ出してもらっていたっけ。一年前が、なんとなく、懐かしい。今年はもう、チョコレートや生クリーム、ラッピングの素材を買い込むところからすべて自分ひとりでやった。
食べたとき、美味しいって言って、またさっきみたいに笑ってくれますように。
誰にでもなくそっと心で呟いて、彰子は「きっといいのが出来るわね」と、不思議な確信をもって応えた。
14:00
バレンタインの夜には、数々のチョコレート菓子が食卓に並べられる。それはもう、夕食と比較しても、どっちがメインだ、と突っ込みたくなるくらいに。しかも毎年ラインナップが異なるのだからまったく尊敬に値する。――と、大量のチョコレート菓子が食卓に並ぶ唯一の原因である斎は思っている。辞退する方が申し訳ないと感じてしまうくらいべたべたに甘やかされている斎は、神使二人の惜しみない(時と場合によっては少々うざったくさえ感じてしまうほどの)愛情の具現であるそれらを毎年頂いていたのだが、毎年続くと、ふと、貰ってばかりも申し訳ないのではないか、と思うようになった。自分も彼らに何かしてやるべきなのではないか。けれども、斎に菓子作り、どころか料理のスキルはほぼ皆無に等しい。万が一があったらいけないからと、二人が台所に近づけさせないためだ。
「なるほど。それで、こっちで作ろうと思ったのか」
納得した風情の勾陣に、斎は肯定の意を示して頷いた。
自分にスキルはない。でも、何か返したい。そんな斎が思いついたのが、安倍家で教えて作らせてもらえばいいのではないか、だった。打診してみたところ快く受け入れてもらえた。話を聞けば、どうやら去年までは彰子が同じようなヘルプを求めていたため、神将たちからしてみれば慣れっこなのだそうだ。
「斎は何を作りたいのですか?」
「ん……分からない」
天一の問いかけに、斎は困った風情で首をひねった。
「たぶん、何を作っても、喜んでくれると思うのだ。でも……一番喜んでもらえるのは何だろうと考えたら、よく分からない…」
「でも、今年だけの思いつきじゃないんでしょう? 来年とかあるじゃない」
太陰の言葉にも、やっぱり斎は困惑気味のままだ。
「それでも、一番驚いて、喜んでもらえるのは、今年だけだと思う」
斎の言葉に一理ある。神将たちは皆納得した。
ちなみに現在、台所に集っているのは、話を持ちかけた斎に、面白がって参加している太陰、もともと作るつもりだった天后と天一。それから、菓子作りの経験値もスキルも圧倒的に足りていない斎と太陰の面倒を一人で見るのは荷が勝ちすぎるからと(天后は料理のたぐいが微妙に苦手で、あんまり過ぎた失敗はしないが基本的に自分一人で手いっぱいなのだ)天一に声をかけられた勾陣、の計五人だ。そういうつもりはなかったが、ここまで揃うと自然と台所が男子禁制の空間になってきている。
「それもそうね。ま、材料いっぱいあるし、取り敢えず色々作ってみてから、これはっての決めればいいんじゃない?」
「そうする。ところで、太陰は誰にあげるんだ?」
「わたし? そうね…別に全部自分で食べちゃってもいいんだけど。取り敢えず、玄武と白虎かしら」
あとは適当に置いておけば誰か食べるでしょ。そう続けた太陰に、湯煎を始めていた天后がくすりと笑った。
「アバウトね」
「斎、そんな感じでいいだろう。あんまり叩くと袋が破れるぞ」
二重にしたビニールの中に入れた板チョコレートを入れてタオル越しにがんがん麺棒でぶっ叩いて砕いていたのにストップがかかる。チョコレートを湯煎する前に、まず包丁で刻んで小さくするものとばかり思っていた斎に勾陣の提案したこの方法は、少々乱暴な代わりに手間が段違いにかからない。アバウトでも何でも完成品が同じなら手間がかからない方がいい、という勾陣の持論に天一が笑っていた。
「勾陣と天后は、どんな菓子が好きなんだ?」
尋ねられて、二人はやや困惑気味に目を合わせた。変なことを言っただろうか。外見年齢が神使と同じくらいだから、参考にと思ったのだけれど。
「ううん……あんまり、参考にならないと思うわよ、斎」先に答えたのは天后だ。「味覚って、もう本当に個人差だから。私は甘いのが平気、というより、むしろ好きなんだけど」
「私はそこまでではないからな。普通のミルクチョコレートなら食べられるし、ビター系は美味しいと思うが、ホワイトチョコは遠慮したい甘さだ」
「うちの男たちはどうだったかしら」
口を挟んだのは太陰で、まず答えたのは天后だ。
「晴明様も吉昌も昌浩も、人間たちはどちらかというと好き、じゃなかった?」
「騰蛇は私と同じようなものだ」
「え、騰蛇ってチョコレート食べるの? 意外。なんか苦手そうなイメージあるのに」
太陰が疑問の声を上げる。勾陣は「ああ」と頷いた。「去年やったら食べていたぞ」
間。
皆が口々にしゃべっていた状態から一瞬で訪れた沈黙に、何も分かっていない斎と、最後に発言した勾陣がことの成り行きを把握できずに瞬きを繰り返す。分かっていない者同士、なんとなく顔を見合わせていると、本当に意外そうな声で、まず天后が口を開いた。
「勾陣、騰蛇にあげたの!?」
予想外に強かった声音に勾陣は数度瞬く。
「ああ。それがどうしたんだ?」
「いいえ。…ただ、意外だっただけです」
「そうそう。勾陣ってほら、こういうイベント絶対乗ったりしないと思ってたから」
「そうか?」
天一と太陰に畳みかけられ、勾陣は苦笑気味だ。
「わりと好きな方だよ、こういうイベントごとは。毎年面倒くさかったから放っておいたのは事実だが」
ふと気になって、斎は尋ねた。じゃあ、「今年も渡すのか?」
勾陣の反応は淡泊だった。
「ああ、もう渡した」
「もう!?」
天后と太陰の声がハモる。彼女らのリアクションが思いのほか大きかったのだろう、勾陣がまた分かっていない様子で瞬きを繰り返した。完全に傍観者の立場である斎は、ぼんやりと、ここのやりとりも面白いなぁと思うくらいだ。
「なんだ、そんなに意外なことか? ……そろそろ、私の話はいいだろう。えぇと、何の話だったかな」勾陣が天后を見やる。「青龍や六合は、甘いものどうだったか」
話をふられた天后は、軽く上向いて考えた。
「青龍は、嫌いじゃないけど、自分から進んで買ったりはしないくらいかしら。たぶん、六合も同じね」
「玄武は好きな方よ。白虎は……分かんないけど。でも、この二人じゃ斎的には参考にならないかも。えぇとあと、朱雀は…」
ちら、と天一を見て、太陰は「だめね」と首を横に振った。「サンプルにもなりゃしないわ」
太陰の台詞の意味が分からない斎はどうしてだろうと思うばかりだ。安倍家に遊びに来させてもらうこともそれなりにあるため、人型を取って生活している十二神将とは面識がある。あの好青年は、益荒と阿曇に外見年齢的にも近いのに。
斎の疑問に答えてくれたのは天后だった。
「朱雀は、天一が作ったものなら、たとえ吐くほど甘くても、火を噴くほど辛くても、それどころかどんなに果てしなく失敗していても、美味しいって笑いながら全部平らげるに決まっているわね」
斎は目をぱちくりと瞬かせた。それは、凄い。それが女性神将全員の共通認識になっているところも、当の天一が恥ずかしがる様子もなく無言の微笑みで天后の言を肯定しているところも、また凄い。感心している斎の耳に、そのとき、太陰の独り言が聞こえてきた。
「どうせ騰蛇も青龍も似たようなものじゃない……」
「そうなのか?」
声を潜めて訊く。太陰は自信たっぷりに大きく、しかし先ほどよりもっと小声になって斎に近寄ってから、頷いてみせた。「ええ、絶対そうよ。勾陣と天后からのものなら、何だって平らげるわよ、あいつら」
「だが、あの二人の斎に対する反応なら、たぶん朱雀のものが一番近いぞ」
このやりとりが聞こえていなかったのか聞き流したのか。太陰の言葉にはまったく反応しなかった勾陣の発言に、斎はただ首肯するしかなかった。そうだ、ある意味それが問題なのだ。安心して渡せる相手ではあるのだが、一番喜んでもらえる品目がまったく想像できない。斎の作ったものなら何でも、ではだめだ。斎の作った『何でも』のなかで、何が一番いいのか。
「じゃあもうやっぱり種類勝負ね」
やけにやる気満々な太陰が目を輝かせる。
「甘いのも苦いのも色々作るのが一番だわ。お得感も出るし」
「…それは重要なのか?」
お得感、というものがよく分からない。自信満々に頷き返された。
「ボリュームは大事よ、斎」
その妙な迫力に気圧されて、思わず納得していた。むしろ、納得させられていた。確かに、量があった方が、わくわく感は増すかな、と毎年のバレンタインを思い返してみる。……あの量を作るのは大変そうだ。
「益荒と阿曇の作ったものを基準にする必要はありませんよ」
そんなことを考えた矢先、天一が話しかけてきて、斎は少々びっくりした。神使も神将も、ときどきこっちの心を読み取ったとしか思えないタイミングで話しかけてくるときがある。
「話を聞く限り、結構手の込んだものを作っているようですし。斎は初めてなのですから、シンプルなもので攻めていきましょう。簡単に作れて美味しいお菓子もたくさんありますよ」
「ケーキだったら、ショートケーキよりカップケーキってところかしら」続けたのは天后だ。「不慣れな感じで作ったシンプルなもの、なんていうのも、ぐっとくるものがあると思うわよ」
「湯煎したチョコレートの中に混ぜるものを変えるだけで種類は稼げるぞ。甘さに関しても、最後にココアパウダーをまぶすだけで随分違ってくるはずだ」
「そう言えばブランデーなかった? 入れてみたら美味しいんじゃない?」
「あ、その、待ってくれ」口々に言われて軽くパニックになる。正直一気に全部言われても覚えていられないし、短時間に選択肢が多くなりすぎのも困る。取り敢えず今は、「…まず、これを溶かしてから、考える」
「そうね。はい、ボール」
太陰が渡してくれた金属ボールに、砕いたチョコを入れる。
「最初は何を作るんだ?」
「何が一番失敗しなくて簡単なんだ?」
「生チョコ…でしょうか。生クリームを入れて固めるだけですし。斎、そのチョコレート何gありますか?」
「えぇと……」
かくて、斎の格闘は始まる。
19:00
そう言えばバレンタインデーは常に西洋風だった。むしろ、西洋式のスタイルが彼らの目的にぴったりと重なっていた、と言うのか。愛する人へ、心を込めて。そんな大義名分を手に、彼らはこの日――どころか、あらゆるイベントごとが本質的には同じになってしまっているのだが――思う存分斎を甘やかす。あんまりにも開き直っている甘やかし方なので、気恥ずかしく思うどころか、それを通り越して、よくやるなぁと、当事者なのに第三者的な感想を抱くのが精一杯である。
ただ、開き直った甘やかしを開き直って当然のように享受するのに慣れてしまうほど、斎の神経は図太くなかった。それに、貰いっぱなし、してもらいっぱなし、というのは、こちらの精神的にも少し、悪い。遠慮したらしたで二人は悲しそうな顔をするので余計だ。外見はいい大人、中身だって何百年も何千年も生きている神の使いのくせして、斎が彼らに遠慮するだけで捨てられた子犬のような顔をするのは勘弁して欲しい。あからさまではないのだが、雰囲気がまさにそれなのだ。
だからお返しを、とは我ながら上々の思いつきだった。協力者も手にして、無事作り上げることも出来た。ただ、家に帰ってきてからも、タイミングが上手く計れずに、せっかく成功したそれらはまだ、斎のバッグの中に突っ込まれたままだった。天一に、渡すチャンスなどを教えて貰わなかったことは失敗だった。ひとこと尋ねたら的確なアドバイスをくれたに違いないのに。
ちらちらと視線を送ったり、口を開きかけてやっぱりやめたり、とを繰り返している、機会を探して挙動不審気味だった斎の様子が見逃されるわけはなく、数度「どうされましたか」と二人から尋ねられたのだが、今のところは何でもないの一点張りでまだ誤魔化している。誤魔化しているうちに夕食時になってしまったが。
デザートの存在を考慮しての、いつもより量の少ないホワイトシチュー。このとき斎は、さっさと渡してしまわなかったことを後悔した。
食卓では、基本的に斎が話の中心にいる。と言うより、二人がそうさせる。だから今晩もいつもどおり、安倍家で今日は何をしていたのかと訊かれた。これには用意していた言い訳を返す。
「別に、いつも通りだ。昌浩や太陰たちと遊んで…」
ふと、何かを間違った気がした。何だろう。
「斎様」
内心で首をひねっていると、嫌に硬い声で益荒から呼ばれた。顔を上げて――固まった。久しく見たことのないような、真剣な表情をしていた。その視線から逃げたい一心で阿曇をちらと見やってみたが、助け船を出してくれる気はないらしく、それどころか同じように硬い顔をしていて、斎はさらに慄いた。
「それは、真ですか?」
久しぶりに二人が怖い。
こくりと頷くと、彼らの目がさらに怖くなった。
「その子どもは、夕方駅前で見かけました」追い打ちをかけてきたのは阿曇である。「……斎様。嘘を仰るな。今日はどこで何をしていたのですか」
「安倍家にいたのは本当だ!」
先ほど覚えた間違いの感覚に気がついた。緊張していて口を滑らせた、あそこは昌浩ではなくせめて玄武と言っておくべきだった。個人名を出す必要もなかっただろう、いつもの面子、と言っておけば納得してくれていただろうに迂闊な自分を呪う。
「食べ終わったら、話すから。少し待ってくれ。頼む」
この空気の中自白させられるのも、こんな流れで渡すのも勘弁だ。しくじったのは斎だけれども、せめてもうちょっとまともな空気の中で渡したい。
無意識に肩を落としていた斎に、益荒も阿曇もそれ以上の追い打ちはかけてこなかった。そう言えば昨日冬季五輪の開会式で、などとまったく違う方向に話がぶった切られていて安堵した。嘘を吐いたのは悪かったが、それにしてもこの過保護ぶりをもう少し何とかして欲しい――などと思うのは、千年も経ってかなり我が儘になってしまったらしい自分の贅沢な悩みに過ぎないが。しかし特にここ最近その傾向が強い気がする。現代は甘やかす材料に事欠かないからに違いない。
早々にごちそうさまと席を立って、安倍家に行くとき使ったバッグを手に取る。
なんて言おう。えぇと。考えるだけ思考は空回りして言葉が見つからなくなる。あまり待たせるわけにはいかない。ただでさえ彼らは斎の態度を不審に思っていた。しびれを切らして向こうから来るかもしれない。そうしたらもっと上手く渡せなくなるだろうことは明白だ。
もう知らない。なるようになれ。開き直りが最強だ。
「益荒、阿曇」
ダイニングに戻って呼びかけると、なにやら食器を出したり湯を沸かしたりとばたばた動いていて二人が一瞬で斎の方を向いた。緊張でつい身を引きそうになって、慌てて平常を装った。
「バレンタインとは、大事な人に、色々菓子を作ってやる行事なのだろう?」
日本的にも西洋的にも正確には違うことくらい分かっているが、利用させてもらう。これは初めて自分たち三人の間にバレンタインの制度が出来上がったときに、大人ふたりが言っていたことを、一般的に説明し直した文章になるはずだ。彼らが自分にした言い訳を、彼らに返して何が悪い。
まさか斎がチョコレートを用意しているだなんて考えもしていない様子の二人が、疑問を隠しもせずに向けてくる。
「だから、わらわも、作ってみた。おまえたちに」
一息で言ってしまおうと思っていたのに息継ぎが普段にも増して多くなった。
斎と神使たちの身長差は結構あり、斎は仰のかないと彼らの顔を見ることは出来ない。気恥ずかしさと緊張に若干俯いてしまっていたので、だから斎はその言葉を告げたとき、益荒と阿曇がどんな表情をしてくれたのかを確認することが出来なかった。
「…我々に……ですか?」
ただ、確認するような阿曇の声が、ひどく呆然としていて、どうやら驚いてくれたらしいことだけは分かった。頷いて、ちらと上目遣いにふたりを伺ってみると、ふたり揃って声音と同じくらい呆然として、瞬きを繰り返しながら斎を見ていた。
驚いてくれた。まずひとつ、ハードルクリアである。少し、気が楽になった。
「わらわが貰ってばかりも、悪いだろう? だから。味は大丈夫だ、今日、安倍の家で、女性神将たちに、手伝ってもらったから」
それでも言い訳めいた台詞は多くなる。
だってこんなこと――誰かにプレゼントを渡すなんて、本当に、生まれて初めてのことだから。喜んでくれるだろうと、分かっている。分かっているけれど、不安になる。べたべたに甘やかされて愛されているという、客観的にも同意を得られるだろう事実に胡座をかくことさえも出来ない。訳の分からない焦燥感と上限を知らない緊張感。たったひとつものをあげることがこんなに大変だなんて知らなかった。
「我らのために、斎様が?」
「…何回言わせるつもりだ、おまえたちは」
「申し訳ありません、つい、驚いて……」
声音はまだ若干放心気味だったが、ひどく柔らかかった。ふたりが近づいてくる。阿曇がかがんで目線を合わせてくれた。
「そのお気持ちだけでも、我らは充分、嬉しゅうございますのに……ありがとうございます、斎様」
「お気持ちも知らず……申し訳ありません」
先の夕食時のことを言っているのだろうとすぐ分かった。益荒の言を否定するために首を横に振る。自分が今、どうしようもなく、年相応の子供っぽい仕草をしていると分かっていたが、他に何も思いつかなかったのだ。
「嘘を言ったわらわも悪かった。心配してくれたのに、すまない。でも、驚かせたかったのだ」
はじめてバレンタインデーの導入された日のことを思い出す。なぜか台所立ち入り禁止例――どころか接近禁止例を出された。今から考えると小学生がやるような誤魔化し方だった気もするが、何をしているのか、まさか自分のためにチョコレート・スイーツを大量制作しているだなんて想像だにしなかった斎は素直に誤魔化された。そして、その夜。いつもより量の少なかった夕食と、その後立て続けに出された数々のチョコレート・スイーツ。普通の一口サイズのチョコレートや、ムース似ブラウニー、フォンダンショコラ、斎に名前が分かったのはそれくらいで、素人が作るものではないような複雑なものまで並んだ。折々菓子を作ってもらってはいたのだが、それにしてもどこまで腕を磨いていたのだろう。何が起こっているのか理解できずに、何をしているのかと尋ねるまでに時間を要したことを覚えている。そして彼らの料理の腕は年々さらなる磨きがかかっている。
今日は、バレンタインデーですから。
要領を得ない返答しかなかった。それ以外に理由はなかったのだろう。斎を甘やかすちょうどいい機会だったからフル活用した、程度だ。斎はそれほど口達者というわけではないから、突発自体に驚いたこともあって、どれほど嬉しかったか、余すことなく伝えることはできなかったけれど。
だからその分、及ばなくても少しは、返してやりたかったのだ。我が儘を言えば、あのときの自分と同じくらい、思い切り驚かしてやりたかった。
叶った、だろうか?
「……食べて、くれるか? おまえたちが毎年作ってくれるものには、及ばないけれど、がんばったのだ」
食べていただけますか?
耳の奥によみがえるあの日の声は、確か益荒のものだった。
殊勝だったのは一年目だけで、二年目以降は年中行事と化して当然のように振る舞われるようになったが。
阿曇が手を打って目を輝かせた。
「もちろん! 喜んでいただきましょう。益荒」
「ああ」
阿曇に呼ばれた益荒は、用意しようとしていたらしい普段のプライベート・ブランドの紅茶から、誰から貰ったのかどこで買ったのか知らないが、値段の勝ると思われるナショナル・ブランドの紅茶に切り替えた。それを見て斎は目を丸くする。本気で美味しく食べてくれるつもりらしい。気合いの入り方が段違いだ。そこまで応えてくれるなんて思っていなかったので目が丸くなった。
「では、斎様」準備をしながら益荒が口を開く。「我々からの分も、受け取っていただけますか?」斎を喜ばせる自信を持った声だった。
「……何がある?」
例年通りならかなりの種類があるはずだから、取り敢えずレパートリーを尋ねてみなければ始まらない。が、例年通りなら、口頭で名称を述べられても理解できないことを思い出したから、指折り数えて答えられる前に言葉を重ねた。
「並べてくれ。全部食べる」
どうせ全部美味しい。彼らの料理の腕はふたり揃って斎のために偏っていて、特に菓子類はかなり上手い。掛け値なしにパティシエ並――いや、その中でもチョコレート関連に特化しているので、どちらかというとショコラティエだろうか? ぼんやりそんなことを考えながら、言葉を紡ぐことに精一杯で実はまだ渡せていないチョコレートをバッグの中から取り出す。チョコレートやクッキーは適当に盛り、カップケーキは別々に皿に取る。神将たちの言うようにシンプルなもので量作戦に出ている。来年はもう少し手の込んで見た目も豪華そうなものをと今から心に決めていた。
だけれど、プロが作ったのか、どこか高級専門店で買い求めたのか、と思わず尋ねたくなるほどの完成度のチョコレート・スイーツたちに、覚悟はしていたが、やっぱり自分のものは遠く及んでいなくて、果たして本当にあげていいのだろうかと後込みしてしまう。
知らず肩を落としていた斎の頭を、ふと、男の手が撫でた。びっくりして顔を上げる。柔らかく微笑んだ益荒が、そのまま何も言わず、斎の前にホットココアのカップを置いた。
「いただいてもよろしいですか?」
いつの間にか用意はすべて終わっていたらしい。
無心で頷く。
いらぬ心配が完全に溶かされて、胸のあたりがふわふわした温かい感覚で満たされるまで、あと十秒もかからなかった。
22:00
毎年この日、不機嫌にならない、とは言わない。ただ、苛々する、とまでは言わない。天后の心境にもっとも近い言葉を選ぶとするならば、諦めの境地、としたところだろうか。
休日だというのに、彼はいつものように夜遅く帰ってきた。理由を聞くと、ちょっとしたシフトの変更があったらしい。そして天后はいつものように青龍を出迎えて、「お帰りなさい、お疲れさま」と洗濯物の入った紙袋を受け取った。いつの間にか始まっていて、いつの間にか当然のやり取りとなっている一連の流れの中に、唯一いつもとは違うものがあるとするならば、青龍が持っていた紙袋がひとつだけではなかったという点だ。
「……今年も、頂いてきたんですね」
もう慣れたが、不満の色を隠すため、声が微妙に硬くなってしまったことは言い訳できない。無意識のうちに丁寧語が出ていたのも。
しかし青龍はそれが気にかかった様子もなかった。決して表だって細やかな気遣いを見せてこない青龍の性格が、毎年この日だけはありがたい。虫の居所が悪いときは愚痴の種でもあるけれど。
「ご飯、どうします?」
「いらん」
「飲み物は?」
「…酒」
「はい」
洗濯物の入った紙袋はひとまず脱衣所に置いておいて、もうひとつの紙袋は台所のテーブルの上へ。お酒何があったっけ、と冷蔵庫の中を見る。発泡酒。冷蔵庫の近くに焼酎とブランデー。発泡酒は却下で、どっちにしよう。十秒考えて決まらなかったから、本人に聞こう、と、彼がいるだろうリビングへ向かおうとして、そのとき台所のドアが開いた。私服に着替えた青龍だった。着替えてすぐにこっちに来るなんて、珍しい。
「やっぱりご飯、いる?」
再び訊いてみるが、切って捨てられた。
「いらないと言ったはずだが」
「ごめんなさい、それなのに貴方がこっちに来るのが、何だか珍しく思えて」
食べ物がいる場合は台所にきて、飲み物だけでいい場合はリビングのソファに身を沈めていて、両方いらない場合は部屋にいるか風呂に入っているか。青龍の行動パターンは分かりやすく簡潔で、だから崩れたとき少し驚いてしまう。
まあ、ちょうど良かった。
「ブランデーと焼酎、どっちがいい? 一応発泡酒もあるけど」
「ブランデー」
即答。迷いがなくていい。ただ、天后の予想では焼酎を選ぶと思っていた。普段なら迷いなく焼酎だった気がするのに、今日はなんだか珍しいことづくめだ。
グラスにストレートで注ぎ、手の熱で少し温めてから出した。
それから、紙袋の中のチョコレートをひっくり返す。捨てるのは勿体ないが食べる気はない、という本人の意向であるので、貰いもののチョコレートはダイニングテーブルやリビングテーブルの上に置いてある篭の中に突っ込んでおくのが恒例だった。あとは欲しい奴が適当に食え、というシステムだ。基本的にお子さま組の腹の中に消えていく。
「全部市販品なのね」
何気なく呟くと反応があった。
「手作りっぽいものはすべて断った」
「……どうせ断るなら、いっそ全部断ったらいいじゃないですか」
ふと気づけば責めるような声音の丁寧語になっていて、天后は慌ててふるふると軽く首を振った。苛立ったり怒ったりしたときに丁寧語になる癖がある、と勾陣に指摘されて何百年、癖は癖のまま治っていない。
青龍の返事は淡々としたものだった。
「市販品なら、安心して食べられる。手作りは得体が知れない」
暴言ここに極まれり、だ。あまりな物言いに、何故か天后が青龍を咎める側に回る。別に手作りを渡そうとした女子たちを擁護するつもりは毛頭ないが、それにしても彼の言い分は女性として引っかからずにはいられなかった。
「青龍。失礼よ」
「本当のことだろう。何が入っているか分かったもんじゃない」
「それは確かに、そうでしょうけど」
彼の言い分にも一理あることはあるのだが、物は言い様という言葉がある。
「こっちは疲れていて、いらないと言っているのに押しつけてくる女に、何故俺が気を使わねばならない」
「市販の方は受け取っているじゃない」
「こっちだっていらないと言っている。直接渡してきたのは断った。これは同僚とかからづたいに渡ってきた奴だ」
それは仕方ないかもしれない。まさかいらないからお前が貰っておけとも言えないだろうし、言ったところで中学生・高校生男子でもないのだから律儀に貰って喜ぶ男も、流石にいないだろう。初耳の事実に、天后は瞬きを繰り返した。
「…それにしたって、この量ですか……」
ミーハー人気なのだろうが、天后からすればどれも一律、同じようにうざったいのに変わりはない。青龍の、普通時でも厳しい眼光に耐え得るガッツのある人間の女の子などそうそういないだろうことは救いだが。そうそう、どころか、いるのかそんな変人、というレベルかもしれない。プラス、恋愛感情というものを抱けていたらそれは奇跡、と言える青龍に、チョコレートをあげたくらいで彼の眼中に入る女が存在するなんてどう考えてもあり得ない。そんな女が存在していたら、それはたぶん、よくて第三次世界大戦が始まる日だ。断言してもいい。
「不満か」
「別にっ」
その通りなのだが、伝えたところで謝罪や気遣いの言葉一つ返ってこないことは重々承知していたから、天后はそれだけ応えて軽く口を尖らせた。
「それに、慣れましたから」
もっと言えば諦めがつきましたから。
青龍を好くということは、つまり、青龍に抱く不満やら何やらを気にすることが馬鹿らしいと気づくことと同義だ。天后自身、こうこうこういうところが嫌だから治して、なんて言える性格ではないが、青龍も、こうこうこういうところが嫌だから治して、なんて言われて治せる性格は――治す努力をする性格はしていない。もしそんな性格だったら千年前に彼の性格は変わっている。前向きに考えると、この点相性は悪くない。
人間諦めが肝心、とは誰の言葉だったか。天后は人間ではないが、取り敢えずその一言は間違いなく真理である。ぶっちゃけ青龍に理想やら夢やらを抱くこと自体が間違っている。
私もとんだ物好きね。ため息を吐いて、自分用の紅茶でも淹れようと湯を準備した。アッサムとダージリンとペパーミントとアールグレイと、といつの間にやら種類の増えていたティーバックの中から、どれにしようかな、とのんびり考える。
「天后」
「はい?」振り返る。「あ、お代わりですか?」
「いや。お前はくれないのか」
「………………え?」
紅茶の種類なんぞ一気に頭から吹っ飛んだ。がちり、と音を立てて、電池を抜かれたオモチャのように固まってしまった天后を、青龍は相変わらずの仏頂面のまま見てくる。しかし硬直してしまって戻ってくる気配のない天后を、流石に不審に感じたのだろう、再び彼は呼びかけてきた。
「天后」
はっと気づいた天后だが、まだ頭は混乱していた。あたふたと両手が意味もなく宙を掻く。
「あ、はい! え、えと…………青龍…よね? 疲れて熱とかあるわけじゃ、ない…わよね?」
「どういう意味だ」
そのままの意味だ。
天后の認識している青龍という男が正気の状態なら、自分からチョコレートを強請るなんて殊勝な真似は断じてしない。目の前の青龍は実はドッペルゲンガーさんでした、と言われても今ならすとんと納得できる。むしろ、そう言われた方が納得できる。
唐突に巨大迷路の中へ放り込まれたような天后の様子を見かねたらしい青龍が、もう一度問いかけてくる。
「あるのか、ないのか」
「あります!」
反射で答えていた。敬礼をしそうな勢いだった。
冷蔵庫の、一番上の段の、右端。少し遠慮気味に置いていたそれを取り出す。四苦八苦しながら作ったボンボン・ショコラだ。
「そうそう。今日、斎が来たんですよ。益荒と阿曇に、何か作りたかったんですって」
緊張を紛らわせるために口を動かす。ほんのりと熱い顔を冷ますためでもあった。
「それで、天一が教えて、面白がって太陰が参加して、勾陣も手伝いに来て、でなんだか総動員になって」
途中朱雀が入ってきて、またいつものやり取りが始まったら、斎が目を丸くしていましたよ。呆れた感じ、とも言えるかしら。斎、料理は殆どしたことないって言ってたんだけど、結構器用にやっていたわ。私は……その、これ作るのに精一杯で、手伝ったりは出来なかったけれど。
天后の話に黙って耳を傾けていた青龍だったが、ここで声を上げた。
「失敗しなかったのか」
と思ったらずけずけと失礼な突っ込みである。いくら天后が料理が不得手であることが十二神将と安倍の人間――天后を知る人物の共通見解だとは言え。朱雀や太陰よりはマシ、なのだが、比較対象が突き抜けていて正しい比較にならない。
反射で言い返していた。それは当たり前の反応だったが、たぶん言い返すベクトルは間違っていた。
「大丈夫です、こっちは!」
「したのか」
「……う…」
言葉に詰まった。
先ほどと同じように、水浴び後の犬のように首をふるふる横に振って、自分の中で今までの流れをリセットする。平常心平常心。
ボンボン・ショコラを青龍の前に差し出す。彼のブランデーが殆ど減っていないことに目を瞬かせた。
「どうぞ」
促して、湯が沸いた音がしていたのでそのまま彼にくるりと背を向け火を止める。青龍の反応を直視する勇気はなかった。頑張ったのは本当だ。自分で食べてみた分には、美味しかった。けれど今青龍が口に運んでいるだろう一つが美味しいかどうかは分からない。不味い確率が限りなく低いことは分かっていて、けれど完全なゼロではないから不安だった。
アッサムを選んでカップに湯を注ぎ、彼の隣に座る。冷まし冷ましゆっくりと口を付けて、それから尋ねた。
「…どう、ですか……?」
どうしても口調が弱々しいものになる。中途半端に料理が下手な自分が軽く恨めしい。壊滅的にだめなら迷わず市販品を選んで、そうしたらこんな不安な気分になることは絶対になかったのに。そして上手かったら自信を持って美味しいですかと尋ねることが出来るのに。
「甘いな」
「あ…」
「…そんな声を出すな。美味い」
「本当ですか?」
「ああ」
青龍は嘘を吐かない。少なくとも同胞相手には。だから天后は、素直にほっと胸をなで下ろした。
「よかった」
「そんなに不安だったのか、お前」
青龍の声が呆れたような色を宿した。
「あ、…ごめんなさい。不安だったもの、食べさせて……」
「何もしていないのに謝るな。昔から何度も何度も言わせるな。美味いと言っているだろう」
ごめんなさい、と言いかけて、昔から同じ失敗を繰り返し続けていることに気がついて、はい、とだけ応えた。
「そんなに不安なら、お前も食えばいいだろう」
え、と青龍の方に顔を向けると、目の前にボンボン・ショコラが突き出されていた。ちょうど天后の口のあたりというベストポジション。開きかけていた唇の隙間。長い指が、伸びてきて、押し込まれた。
――アナタイマナニヲシマシタカ。
口の中に何かが入っている。冷たいもの。溶けている、っぽい。味がしない。ざらざらで、とろとろ。それだけ。美味しいも不味いもない。
「…………せ、りゅ…」
舌が固まっていて回らない。天后をこんな状態に追いやった当の本人は何も気にしていない顔で、たぶん彼にとってはふたつめのチョコレートを口に運んでいる。
「どうした。分かっただろう、不味くない。美味い」
これはもしかして世にも珍しい彼の気遣いで励ましだろうか。しかし天后の頭はそれどころではなく――ことの流れを把握して、何かが爆発した音が聞こえた、気がした。心臓だろうか頭だろうか血管だろうか全身だろうか。どこであろうと死ぬ。でも生きている。ああじゃあ十秒後に死ぬんだ、そうだ。いち、にぃ…………きゅう、じゅう。生きていた。
顔が熱い。火照った熱が下がらない。心臓がばくばくと響いていて、カップに伸ばした腕が硬直して震えていた。生きているけど、どこか壊れたらしい。
何も考えられず、取り敢えず紅茶を煽ろうとして、
「あつっ」
むせた。
「……何をやっているんだ」
隣から、先ほどより強く濃く呆れた声。うるさいうるさい。誰のせいだと思っているんですか貴方は。誰も好きこのんでこんなに混乱している訳じゃ、
というか何で私だけがいつもこんなに!
「な…んでも、ない。美味しかったなら、いいです」
必死でそれだけを返して、身体を少しねじらせ、ほんの少し彼に背を向ける。
今度から絶対、絶対不味かったらどうしようなんて思ってやるもんか、態度に出してやるもんか。
堅く自分に誓って、天后は、少々熱いのを我慢して、一口分だけ、一気に味のよく分からない紅茶色の液体を飲み込んだ。喉に腹に、熱いものが通って落ちていく。結局、青龍の食べているボンボン・ショコラがどんな味だったのか、分からないままだった。