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奇襲戦法

 何事においても先手をとるということは重要である。と、十二神将二番手である勾陣は考える。
 先手と後手。いかなる状況下においても相手に対する効力の差は歴然で、先手を取った方が圧倒的に有利となる。戦場のみならず日常生活の場でもその定義は例外ではない。
 前者は当然のこととして、後者においては相手の反応を余裕をもって見ることが出来るという点で。それがまた彼女にとっては実に面白く、勾陣が可能な限り先手を取ろうとする理由がそこにある。ちなみに該当者は基本的にひとりだ。

 では、どうすれば先手を取れるのか。

 自室で椅子に腰かけて、右手に持った物を見ながら勾陣は思案する。その正体はと言えば紅蓮へのお返しだ。
 本日の日付は三月十四日。俗に言うホワイトデーという日である。バレンタインのお返しに、という尻馬商法による日本独自のイベントだがバレンタインよりも浸透しておらず、基本的にはカップル間もしくは女の子同士による『友チョコ』へのお返しの日、という認識が強いと思われる。不義理がまかり通る現代において、まだ出来ていない男女間の中で成立することは(男側が親にでも説教されないかよほどのお人好しでない限り)珍しいだろう。
 ……ならば自分たちはどうなのかと考えれば答えに困るところである。認めるのはなんとなく癪なのだが否定するには惜しいのだ。
 どちらにせよ『男から女に』という日であるはずなのだが、バレンタインからして逆だったので気にする必要はない。

(…「こういうこと」だけは渡した方が後手に回るケースが多いからな……)

 もちろんそんな失態を犯すつもりはないが危険性は否めない。ちなみに(勾陣の方にも問題があったように思うが)先月の紅蓮がそんな状態に陥っていたのを思い出すと―――やはり否めない。開き直ったり無意識だったりすると何気に強くなるので余計だ。
 それはご免こうむりたいところである。
 が、生憎と良い案は浮かんでこず、仕方がないさっさと渡してさっさと切り上げて終わるか、と決めて、

 その時ふと妙案が浮かび、勾陣は自らの思いつきに唇の端を吊り上げた。



 戦場で先手を取る際に最も有効な手段。
 それは日常生活の場でも応用がきくのではないか。




◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆




 家事の合間に一息つこう、と紅蓮は自分用のコーヒーを淹れるために湯を沸かし始めた。片手鍋を火にかけたタイミングでやや斜め後ろに慣れた気配を感じる。肩越しに軽く振り返れば予想通りの人物がそこにいた。

「なんだ勾か、どうした?」
「別に用があったわけではないが。他の面子はここにはいないのか」
「居間か自室か外出だと思うが」
「……そうか」

 背を向けての会話のため紅蓮に勾陣の表情は見えない。しかし今の声音。どこか笑みを孕んでいるように聞こえたのは果たして紅蓮の気のせいか。
 が、再び肩越しに振り返っても涼しい顔の勾陣がいるだけで、先ほど引っかかったものが正しかったのか外れていたのかの答えはない。尋ねてみようにもそのように話の流れを作る技量を紅蓮は持たず、取り敢えずは一番無難な話題から入ることにする。

「お前も飲むか?」

 言ってインスタントの粉が入っている瓶を彼女に見せる。

「いや、いい」

 普段の確率から考えれば頷いてくると思っていたために紅蓮は虚を突かれて目を見開いた。珍しい……と言うのは彼女に失礼かもしれないが。「ドリップで頼む」くらいは言ってくると思っていた。そのくらいの我儘は当然許容範囲内なので叶えてやろうとも。
 ではどうして居間ではなく台所の方に来たのだろう、と新たに湧きあがった疑問に紅蓮は内心で首を傾げた。

「ところでだな、騰蛇」

 それを尋ねる前に話の主導権が勾陣に移る。

「ん?」
「戦場において己が絶対的有利になる戦法は何だと思う」
「……………………は?」

 たっぷりと間を開けた後に返せたのは間の抜けた声だけだったという紅蓮だが、誰も彼を責められまい。投げかけられたお題が唐突すぎる。何なんだこの話題は、一体どこからアクロバットしてきた。
 勾陣が来てからの会話を脳内再生してみるも心当たりは全くない。

「…どうした、よもや分からんと言うわけではないだろうな。もしそうなら失望するぞ」
「いや、違う、分かる、と言うか分からんといけないだろう! だがどういう脈絡でその話に」
「変なところに迷い込むな、さっさと答えてくれればそれでいい」

 鍋の水がしゅんしゅんと音を立てている。コンロの火を止めながら紅蓮はがっくりと肩を落とした。意思疎通がなされていないのはいかがなものか。そのための努力の欠片さえ見当たらない。もう既に「だって彼女のことだから」で諦観出来る域に達しているものの、時折そんな思いが脳裏をよぎる。
 それ以前に、勾陣がここまでぽんぽんと自分のペースで話を進める相手は紅蓮が知る限り紅蓮ひとりである。その理由を紅蓮は知る由もないし、彼女の中の自分の立ち位置が見え隠れしないこともないが、もしかしたら自惚れられる要素かもしれないなどと思ってしまう自分はいい加減重症だ。勾陣に知られたが最後盛大に呆れられる気がする。

「…取り敢えず最も無難なのは」

 カップに湯を注ぎながら口を開く。

「奇襲、だろう。背後からさっさと先手を取るのが一番だ。ついでに言えば反撃が来るまでに畳みかけるかさっさと逃げるか…だな。違うか」
「違わない。そうかお前もそう思うか」
「……勾。…何を企んでいる?」

 好奇心と疑問が満足そうな勾陣の声に後押しされて臨界に達する。企んでいる、というのは言い過ぎではないはずだ。どこか可笑しそうな響きを含む声音や話の運びが以前の事例に重なる。少なくとも何かを面白がっていることは明白である。
 何やら後ろの方でがさりとビニールが音を立てた。

「別に何も? …強いて言うなら」

 ひょうひょうと嘯くような声は予感を確証に変化させるには充分だった。
 訝しがりながら半回転して体の向きを変えた紅蓮は息を呑んだ。軽く手を伸ばしただけで難なく触れられるほどの結構な至近距離にいた勾陣が己を見上げており、黒曜石の瞳が鏡のように驚いて軽く目を見開いた己の顔を映している。薄い唇が浅く下弦の三日月を模り、
 いっそ艶やかとさえ言える微笑に紅蓮が惹きつけられた隙を縫って勾陣は紅蓮の胸倉を鷲掴んだ。
 確証出来たからと言って回避出来るわけではない。先ほどとは別の意味で息を呑む。ぐいと引っ張られれば油断していたこともあってあっけなく体勢を崩し前のめりになり、

 何か柔らかいものが唇に触れた。同時に控え目ながらも口腔内に広がる甘い香。
 ねっとりと甘い―――……チョコレート?

 触れ合う温度が等しくなったと思えば、触れた時と同じように何の躊躇いもなく感触が離れた。

「……いわゆる、奇襲と言う奴さ」

 親指でキスの名残を拭うように唇の輪郭を辿り、勾陣は一層艶やかに笑んだ。いたって自然な仕草のように見えるくせにどこかなめかましささえ感じさせる。
 瞠目して頬を引き攣らせる紅蓮に勾陣は彼に見えぬようにして持っていたものを押しつける。
 すっかり固まった紅蓮の様子が可笑しくてたまらないと言うようにくつくつと笑いながら勾陣は踵を返した。そのまま台所を後にする勾陣を紅蓮はただ見るしか出来ない。
 凍りついた喉が役目を思い出したのは彼女が見えなくなってからだ。

「………ちょっと、待てっ……!」

 頬が火照っているような気がした。硬直を自力で振り払い、顔の下半分を手で覆う。誰もいなくてよかったと本気で感謝した。こんな姿、誰かに見られてたまるか。
 動揺の収まらぬままに受け取ったものを見る。―――あぁそうか、今日はホワイトデーだったか。バレンタインの時はあんな台詞を言った彼女だが、しっかりお返しは用意してくれていたらしい。そう言えば渡し方が先月の自分に重なる。このあたりの行動原理は似ているのかもしれない。
 それは嬉しい。彼女が自分のために時間を割いてくれたということが。女々しい思考だとは思うが本心に嘘は吐けない。
 が、あれは何だ。渡す際に付随してきたあの行動は一体何だったんだ。
 あれは―――普通男の特権だろう!?
 頼むからこういうことまで逆になるなと願わずにはいられない紅蓮である。こちらの立つ瀬がない。
 しかし先ほどの突発的な問いかけの答えにはなっていた。なるほど、つまり勾陣はこの『奇襲』を仕掛けたかったのだ。チョコレートの香は、多分食卓の隅に常備されている飴やら何やらが入っている籠の中から失敬したのだと思う。あの時の音はそのせいだ。
 意味もない状況確認を済ませて、天井を仰いだ紅蓮は胸中で呟いた。
 ―――あぁ畜生あの女は。
 文句を並べたてるのが関の山だったが、やはり本心に嘘を吐き通すことは不可能で、いいように遊ばれてしまう自分に問題があるのかもしれないという答えに行き着く。

 未だ穏やかな主張をする甘い匂いを無粋な苦みで流してしまうことが勿体なく思われ、せっかく淹れたコーヒーは冷めてしまうまで一口分も減ることはなかった。




◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆




 『奇襲』を仕掛けた勾陣はさっさと自室に戻った。椅子に腰かけて窓ガラス越しの空に目をやる。しかし目にはいるのはガラスに映る自分の顔だ。―――頬に差す朱を気のせいだと思いたい。
 小さく、けれどやや鋭く、部屋に舌打ちの音が響いて消える。
 くそ、と内心でひとり毒づいた。
 奇襲は成功した。醜態も晒していないし主導権も奪われなかったし(紅蓮の言い方を借りれば「反撃が来る前にさっさと逃げた」)、硬直しつつも静かに慌てる紅蓮の様子は実に面白かった。
 が。

「…誤算だったな……」

 誰にも聞かれることのない呟きはしかし己にはしっかりと聞こえ、含まれているどこか悔しげな響きがよく分かる。
 ―――仕掛けたこっちが紅潮するとは何事だ。
 そして『お返し』を紅蓮が気に入ってくれればいいと思っている自分にも気付いてしまい、私も大概だなと苦笑を洩らして勾陣は窓ガラスから目を逸らした。





気付かなくていい、届いて欲しい。
同じくらいには想っていると。




製品名:奇襲戦法
成分:最早勾紅と言った方が正しいふたりへの一部歪んだ愛その他諸々
製作者:碧波琉
製造日:2008/03/14
賞味期限:貴方の萌えが冷めるまで


――――――
「Dear. my precious」の碧波琉様からフリーでいただきましたホワイトデー小説
と、いうことで、またまたもらってきたんです
だって、対ならもらわなきゃ損(えっ!?
自分のとこはやらないくせに
そういやバレンタインデーはバレンタインっていうのに
ホワイトデーはなんでデーをとらないんだろう





h20/3/19
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